オペラ「美女と野獣」
2008年1月11,12,13日、新国立劇場中ホール
Report 小林裕子
初演は1898年10月。大久保昌一良氏の台本。2003年の再演前の大々的な、台本をも含む改作の結果、決定稿といえる作品になった、と作曲者自身が語ったオペラの再演であった。
筆者にとっては、時代を問わずオペラを上演すること、鑑賞することがどういうことなのか、改めて考えることとなった上演であった。
筆者は2年前に「ヘンデル オペラ・セリアの世界」を恩師、藤江効子氏と共訳、上梓した。この本はいわゆるバロック・オペラを現代に再生する時、なにを注意すべきか、何をしてはいけないか、しなくてはならないか、をヘンデル研究の大御所であるウイントン・ディーン氏が力強く論じた書物である。この研究は200年の長きにわたり眠りについていたヘンデルのオペラが20世紀に蘇ったことに端を発している。しかしオペラの上演の問題はバロック・オペラ上演に際してのみ存在するわけではないことを、今回の「美女」の上演でつぶさに感じたのは、筆者ひとりだろうか。
今日ではオペラのみならず大掛かりな舞台作品の上演にさいし、舞台監督や演出家の存在が必要不可欠となっているし、そのことに疑問を持つ人はいないだろう。18世紀、ヘンデルの時代にはそのような職種は存在せず、台本作家と作曲家がその役割を担当していた(少なくともロンドンでのヘンデルの作品上演では)。台本と音楽とが微妙にからみあい、反発しあいつつ、作品は展開し収束する。純粋な器楽音楽や声楽作品なら「聴く」こと、「鑑賞」することは耳と頭脳だけの問題だが、オペラには視覚的要素がふんだんにあり、聴衆にとってはそれこそがオペラ鑑賞の大いなる目的のひとつでもある。少々意地の悪い言い方をすれば、オペラは純粋に音楽を聴いて音楽作品について云々できるものではない。
演出という「衣」をまとい供されてはじめて完全な形、上演になるのだから。この「衣」しだいで聴衆への印象が大きく異なること、しいては音楽に対する印象までもが変わることもありえよう。ヴァグナーの「リング」についての近年のバイロイトでおこった騒ぎもそのひとつであろう。こちらはいうなれば作品の価値がすでに定まっており、演出そのものにも歴史があるがゆえの事件であった。
2003年の「美女」上演と今回の上演の大きな違いはこの演出、すなわち視覚的な面で大きく違っているように思えた。
演出は、おそらく世相を大きく反映してなされるものと考える。極端な例だが、ヘンデルの作品で「セメレ」というものがある。もともとオラトリオながら、その内容があまりに劇的なためにオペラとして舞台上演される作品のひとつである。ジュピターと人間の娘の愛を描いたもので、近年のロンドンで上演ではジュピター夫妻がエリザベス女王夫妻をもじっており、その批判精神???当時、女王夫妻がしょっちゅう新聞雑誌であれこれととりあげられていた??に驚いたことがあった。「美女」の舞台を見て、現在の日本の世相、それが舞台上で、視覚的に表現されると、色彩的にも動きの面でもこうなるのかと感じ入った。2003年上演との視覚的な差異は、演出家が変わったことだけではなく、世相の変化でもあったことを考えさせられた。
視覚的にはどうあれ、音楽はどこまでも憧れに満ちた水野の世界。あのリズムとオーケストラのサウンドも。なにより深く響く鐘の音、ソプラノの艶やかなヴァカリーズの旋律は、聴く者の心を捉えてはなさない。筆者には若干の音楽が割愛されていたように思えたが、おそらく演出上必要との判断だったのだろう。
多くの作品が生み出され、演奏される。しかし再演される作品はいったいどれだけ?オペラのような大掛かりな舞台作品にいたっては、再演は砂漠でなにかを探すほど。数年に一度は舞台にかけられる水野作品はすでに確たる地位を得ている、と思われる。研究者の一人としてこれほど嬉しいことはない。来年2月には「天守物語」が同団体にて再演されるが、これもどのような舞台になるだろう。期待です。
2008年1月23日 小林裕子
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