2003年6月21、22日、オペラ振興会主催により1989年初演のオペラ“美女と野獣”改訂版上演が新宿文化センター大ホールにて、ダブルキャストで行われた。以下その報告。
21日、22日両日ともそうでした。まだ音楽が終わらない、幕も下りかけたばかり。なのに拍手は嵐のよう。感動が渦巻く2日間でした

“美女と野獣”といえば思いおこすのはデイズニー、あるいは少し古く、ジェラール・フィリップ主演の映画でしょう。少し、ではなくかなり古いかな?筆者の母の時代です。水野の美女の舞台は戦国時代の日本。悪の巣窟の操作で苦境にたつ父の命のかわりに野獣の花嫁になるきぬ、そしてやさしい人の心をもつ野獣の話。

武器商人の娘きぬ。一方領民のために戦争に常に勝利を、と願い、魂を闇の王者メフィストに売ってしまい野獣となった雪の介。メフィストの策略できぬの父親が遭難。迷い込んだ末野獣の屋敷へ。財産を失いつつも娘へのみやげに、と目にしたゆうすげの花をたおってしまう父親。だが、ゆうすげを唯一の友として野獣は生きていたのだ。彼の要求はゆうすげのかわりにきぬを花嫁に、というもの。命からがら帰国の父。孝行娘のきぬは野獣のもとへ。心からのもてなしに徐々に心うちとけるきぬ。だが再び悪の中枢、メフィストの策略。雪の介に満月の夜だけもとの姿にもどそう、だが口はきけないまま。あとであれが野獣の姿、とけっして語ってはならない、との条件。それをのむ野獣。人の心をもつ野獣のあせりでしょう。美しい雪の介に恋するきぬ。あせる野獣・・・・。

思わぬときに戦さがおこる。野獣の長い留守の間、いつまでも城で待つ、という約束をしたきぬ。だが父の病気で帰国。約束をたがえ苦しい胸のうち。月日は流れる。激しい戦いの末に城に帰ってみるときぬはいない。約束をたがえたこと、自らの運命に絶望し、城に火をつけ自らの命を立つ野獣。そこへ立ち戻り、ともに死に行くきぬ。きぬの愛にメフィストの魔術はやぶれ2人の愛は昇華する。水野の永遠の愛、それゆえの平和がここの凝縮がここにあります。

1989年といえば最初のオペラ“天守物語”から十余年がすぎ、2年前にあの大作、完成までに26年もの年月を費やした交響的変容の完成をみている。オーケストラ楽器のみならず世界の民族楽器をも含む、楽器にかかわるあらゆるサウンドの展覧会、これでもかこれでもか、というような多様なリズムの並置、組み合わせ、置き換えとブレンド。そう、もちろん声も楽器です。渾身の力を注ぎ込んだ、という表現があてはまるあの大作。この作品をもって彼は日本の音楽史に名を刻み付けたと思ったものです。

だが翌年の交響詩“夏”を聴いたときに、ああ、あれだけではなかったのだ、これからが彼の本当の作品が生まれるんだ、一体この作曲家のもつ力、抱合力はどれだけのものなのだろう?と思ったものだ。“夏”がすっかり力が抜け、すっきりと、なんの無理もなく生まれた?だって力をもって聴く必要がない、いままでと別の世界を示唆する作品だったからです。確かにその後、つぎつぎと交響曲が、オペラが生まれ始めました。これが水野修孝のスタイルだ、とはっきりと表明され、これが彼のサウンドだ、となんの逡巡もなく表明され、聴き手は一瞬にして水野作品であることが把握できる、そのように進み始めた、そう思っています。

“美女と野獣”は今回の再演に際してかなり改訂されています。初演版では聞き取りにくい声、重なりがあり、なかでも一番不思議だったことはこのオペラの終結が悲劇なのか幸せなのか判断に苦しむところでした。どちらかな?と考えさせる深遠なものを目指したのだろうか、とも考えましたが、いやいやそれはないでしょう。愛は必ず成就する。この幸せがなくては水野修孝の世界ではない、と筆者の思いです。初演版にくらべると全体がずっと短縮され、レチタテイーヴォにあたる会話の部分がかなり削除されました。結果として音楽がずっと前面に押し出され、それによって台本、このオペラを通して彼の思想がくっきりと、しかも遠近法で見ているようにはっきりと段階を持って聞き手を説得させてくれる。

初演から十数年、さらに水野の手法が冴え、研ぎ澄まされ、聴く者の胸を打つ方法を深めたのでしょう。もともと推進力こそ彼の音楽の大きな特徴でしたが、さらにそれは強力なものとなっています。ひたすらクライマックスへ向けて推進する力強さ、その内側では、音とリズムにかんするあらゆる技術的可能性を抱合し、音を自在にあやつって一点にむかって突き進んでいく。一方ではとびきり美しい旋律。きぬのアリア、それに添うヴァイオリン・オブリガート。どこまでロマンテイストなのだろう?耽美の極みでしょう。チェロのオブリガートの美しさもきわだっています。

嫋々たる旋律美と小悪魔達あのリズミックなコーラス、踊り。このコントラストの妙。コロスとしてのコーラスの使い方。状況の説明と心情の説明。舞台上と舞台裏。ギリシャ悲劇の世界。そして17,18世紀ヴェネチア派の空間利用の形でもあります。野獣側とメフィスト側。そしてきぬの“愛だけが!”という叫び。一瞬たりとて聴き手の注意をそらさない。つぎつぎと紡ぎだされていく音楽。このようなことを誰ができるのだろうか?あのワグナーでさえ、音楽が弱まり、和声の流れに身を任せてしまう、そんな瞬間がいくらでもあるのに。いままでたくさんあった彼の作曲上の特徴がはっきりと収斂した、今回の改訂版で思った第一のことです。

ドラマの根底にあるものは平和希求、反戦。“天守物語”でも同じ事が言えるし、また合唱作品“男声合唱のためのカオス”でも同様です。よく考えてみよう。すると、すべての作品がそうだと言っても言い過ぎではありません。クワイアチャイムのための3分たらずの作品にもその祈りが込められています。迫り方はさまざまです。でも“美女と野獣”では強烈に聴き手の胸にせまるのです。

このオペラの再演がこの時期になされるということは偶然とは決して言いがたいと思えます。話はそれますが・・・今年2月にロンドンでヘンデルのオラトリオ“ヨシュア”という作品が上演されました。1748年初演、54年再演のあと眠りについていた作品です。旧約聖書、ヨシュアです。3幕のオラトリオのなかに3回の、しかも別々の戦争が登場。3回も、です!劇場で?こんなに戦争ばかりの作品?と実は数年前に行った台本翻訳のおりに不思議だな、と思った作品です。それが再演されたのです。200年以上の時を超えて。ある新聞の批評。当時は今にもイラクとの戦いが起こりそうな世界情勢だったわけです。このような時にこのような作品を上演するということは愛国心をあおるための選曲?というものがありました。もちろん大真面目で。だれもが読むだろうな、という種類の新聞だったのでぎょっとしました。そのことを思い出しつつ、反対に、この時期だからこそ上演されるよう、何か計らいがあったのだろうか、目に見えない、だれにもわからない計らいが?と思ったものです。

随所に語られる、なぜ戦うの?私はどこから来たの?なぜここにいるの?どこへいくの?なぜ戦うの?なぜ殺すの?なぜ?なぜ?最後の場面、人は打算だけ、打算だけ、と歌うメフィスト側のコーラス、勝つ為にはなんでもするんだ、最終兵器をも使い血で血を洗う戦いを繰り返すんだ、と歌うメフィスト。自らをまもるために、と言いつつ日々人を殺し続ける。これは一体なんなのか?と訴える。これは“今”の世界です。

見事な終結部でした。きぬの愛に魔術は破れ、天国へ旅立った2人。愛がすべてに勝つということでしょう。愛と反戦は作曲家水野修孝の根底にある思想です。

 もう一つ彼の根底にある考え。人間はどこまでも前進できる、よりよくなれるのだ、という考えです。十数年の間にこれだけ勉強した、これだけ作品を良くできる。身をもって教えてくれたようです。

 彼の3番目のオペラ“ミナモ”の再演を心待ちにしています。

 2003年6月23日     小林裕子